1548年
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山形城で最上義守の娘として生まれる。
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1564年
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伊達輝宗に嫁ぐ 米沢城
伊達輝宗 伊達家16代当主となる。
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1567年
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梵天丸(伊達政宗)を生む
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1568年
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竺丸(伊達小次郎政道)を生む |
1570年
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兄義光が家督を継ぎ最上家第11代当主になる。
父 義守と兄 義光が対立 夫輝宗は義守に加担
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1571年
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梵天丸疱瘡にかかり右目を失明
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1574年 |
再び最上父子の対立が再燃(天正最上の乱)、輝宗はまたも義守の援軍へ参じている
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1577年 |
梵天丸元服 藤次郎政宗と名乗る。
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1578年
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義守の妹婿 上山満兼が義光に反発して峰起。輝宗は義守に協力
実家と嫁ぎ先の争いもさることながら、家督を継いで以降長きに渡る実父と実兄の争いに危機を感じた義姫は意を決して戦場へ参じる。そして輝宗の陣中に輿で割って入り、激情ともいえる決死の説得を行ってついには伊達勢を撤兵せしめるに至った。
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1584年
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輝宗隠居 館山城に移る。 政宗家督を継ぐ
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1585年
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輝宗が二本松義継に殺され未亡人となった。彼女は、隠居したといえど影響力のある輝宗を疎んじた政宗が、謀殺したのではないかと疑い、政宗に関して不信感を抱いたとされる。
さらに政宗が奥羽の覇者たるべく各地に進撃する中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏に攻め込んだり、最上家の本家にあたる大崎氏に攻め込んだことが、彼女にますます不快感を抱かせた。
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1588年
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伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。
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1590年 |
政宗は秀吉より小田原参陣の命令が届く。
弟の小次郎が政宗の手にかかって死去。政宗毒殺未遂事件により成敗されたとする説がある。
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1591年 |
米沢城から岩出山へ転封
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1594年
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義姫が岩出山から出奔して山形に戻った。
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1595年 |
豊臣秀次事件。姪・駒姫が刑死、義光正室・大崎夫人も後を追って自死。
政宗も御家取り潰しの危機に瀕する
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1600年
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長谷堂城の戦いに際し、政宗の命により援軍に発った留守政景の陣へ催促の書状を出している
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1602年 |
仙台城完成
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1614年
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義光死亡
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1622年 |
最上氏お家騒動により改易 行き場を失う
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1623年 |
政宗は母を仙台城に迎える
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1623年
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死去 享年76
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1636年
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母の十三回忌に菩提を弔うため保春院を保建立
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