1557年
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父:米沢八幡神社の神職の片倉景重の二男として生まれる。(山形県川西町の説もある)
母:本沢真直の娘 異父姉(母の連れ子)は政宗の乳母の喜多
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1560年
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父と母逝去 以降は姉喜多が母代わりとなって小十郎を養育した。
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縁戚の藤田家へ養子に出される。
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1567年
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主君の輝宗に嫡子の政宗が産まれると、景綱の姉、喜多は政宗の「乳母」を拝命した。
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1570年
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藤田家に嫡男が生まれる、小十郎は藤田家を出る
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1571年
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才を惜しんだ伯父・意休斎や姉・喜多の推挙を遠藤基信が汲んで、ついに伊達輝宗の徒小姓として取り立てられることとなった。
小十郎景綱と改める。
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1575年
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遠藤基信の推挙により梵天丸の傅役(もりやく)を任じられる。 景綱19歳 |
1577年
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梵天丸元服 藤次郎政宗と改める。
政宗の近侍となる。
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1581年
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政宗の初陣 相馬との合戦に出陣 無事戦勝
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1584年
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政宗家督相続
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1585年
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小手森城の合戦では鉄砲の釣瓶打ちを提案し攻城に一役買っている
人取橋の戦い 大森城を与えられる
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1588年
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郡山合戦 北方の大崎合戦大敗に乗じて大内定綱が侵攻してくるが、成実らと寡兵でしのぎ続けて政宗の援軍到着まで40日余りを持ちこたえた。
この頃に喜多考案の「黒釣鐘」を旗印として使い始めている。
伯父・意休斎の子が病弱であったため、出世頭の景綱が片倉家総領になった。
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1589年
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摺上原の戦い
三番備を担当。向かい来る砂塵に潰走し、旗印を敵に引き裂かれる屈辱を味わった。
これに激怒した片倉家臣が蘆名方の陣へ突っ込み、意趣返しとばかりに法螺貝を奪っている。
豊臣秀吉によって蘆名攻めの罪を問われた伊達家中は主戦派と小田原参陣派に別れ評定がまとまらなかった。
上方の脅威を予見していた景綱は「秀吉ずれなどは五月に湧く蝿の如し。いくら打ち払ってもたちまちたかられるでしょう」と決死の諌言をして政宗に小田原参陣を決意させた。
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1590年
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小田原征伐
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1591年
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政宗岩出山へ転封 影綱は亘理城主となる。
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1593年
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文禄・慶長の役
景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。
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1598年
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秀吉逝去
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1600年
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関ヶ原の戦い(長谷堂城の戦い)
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1602年
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白石城城主
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1608年
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片倉小十郎景綱が片倉家の菩提寺を建立
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1614年
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大坂の陣では病床に臥していたため、嫡子の重綱(重長)を参陣させた。
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1615年
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死去 享年59 菩提寺:傑山寺
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1680年
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三代片倉小十郎景長は、片倉家代々の城主の墓所を、白石城の見える福岡蔵本の愛宕山麓に決め、傑山寺より初代景綱と二代重長の墓を改葬
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