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松山 茂庭家

伊達家初代の朝宗に仕え、伊達郡茂庭村を領して鬼庭と称した。以後、代々伊達氏に仕えて戦国時代に至った。

鬼庭(おににわ)・茂庭(もにわ) 綱元(つなもと)・延元(のぶもと)
1549年
 伊達郡小屋館(赤館)城主の鬼庭良直(もにわよしなお)(周防・左月斎)の長男。
・1575年
 父鬼庭良直隠居に伴い家督を相続、長井郡川井(米沢市)城主となる。
・1586年
 人取橋の戦いでは殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦するが、父・左月斎は討死にした。 伊達家奉行職に任ぜられる。(38歳)
・1591年
 伊達政宗が岩出山に減転封されると磐井郡赤荻城主に
・1592年
 文禄の役の際には名護屋城に在って留守居役を務める。豊臣秀吉から鬼が庭にいるのは縁起が悪いという理由で茂庭に改めさせられた。
・1595年
 秀吉との親密な関係は主君・政宗から疑念を招き隠居させられる。
 茂庭良綱(良元)に家督を譲る。これに憤激して伊達家から出奔
・1597年
 赦免され帰参。仙台藩草創期における行政部門の統括者としての役割を果たす
・1602年
 伊達政宗がかつて豊臣秀吉から賜った愛妾・香の前を下げ渡され、政宗と香の前との間に生まれた一女(津多)・一男・(又四郎)は、綱元の子として育てられる。
・1636年
 伊達政宗が死去すると政務を離れ文字(栗原市)に隠棲
1640年
 死去 享年92歳

松山 茂庭家初代当主 
茂庭 良元(よしもと)・良綱(よしつな)
・1575年
 茂庭(もにわ)綱元(つなもと)・延元(のぶもと)の二男としてうまれる。
・1588年
・1592年
 八幡宗実の養子になる。
 兄の茂庭安元が病死したため実家に呼び戻される。
・1595年
 父・綱元が伊達政宗の命により強制的に隠居に追い込まれる。
 家督を相続して磐井郡赤荻城主(一関市)となる。5000石
・1603年
 松山城主(大崎市松山町)になり 5365石
・1631年   千石城の北側1kmの丘陵地に「上野館」を築き移転  
・1641年
 茂庭(もにわ)綱元(つなもと)・延元(のぶもと)の子は白石城主・片倉重綱の養子となっていた三男の茂庭定元を呼び戻して跡取りとした。
・1644年
 良綱から良元に改名
・1651年   定元(延元)に家督を譲って隠居所の上野館に移り、1654年に入道して左月斎と号した
・1663年
 死去 享年85歳

松山 茂庭家二代当主
茂庭 定元(もにわ さだもと)  
・1621年
 茂庭 良元(もにわ よしもと)・良綱(よしつな)の三男として生まれる。
・1641年
 茂庭(もにわ)綱元(つなもと)・延元(のぶもと)の子は白石城主・片倉重綱の養子となっていた三男の茂庭定元を呼び戻して跡取りとした。

 伊達騒動時には反兵部派。兵部の陰謀を防ぐために奔走する。
・1666年
 死去 享年

  松山 茂庭家三代当主
茂庭 姓元(為元、良利、重元)
・1647年
 茂庭定元の長男として生まれる。

 
・1706年
 死去 享年


松山 茂庭家歴代当主
茂庭家御霊屋 石雲寺
・場所:宮城県大崎市松山千石字大欅91  Yahoo地図
・説明:仙台藩重臣茂庭氏の菩提寺
 茂庭家霊屋(県指定)伊達茂庭歴代の位牌が安置されている。
 松山領主茂庭氏3代(良元、定元、姓元)の墓の上に立つ霊屋で、堂前の献灯の銘から1708年(宝永5年に完成したものと推定される。建物は素木造、方3間、屋根は宝形造茅葺で、中央の間に両折桟唐戸、両脇間に連子窓を設ける。正面に1間分の向拝を付ける。全般的に質素な造りながら雅趣に富んだ霊屋建築である。