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津多(慶月院)

1598
 伊達政宗の子として生まれる 母:愛妾の香の前・種(重臣・茂庭綱元の側室)
 (系譜上は茂庭綱元の子)  名は津多
・1602年
 母は政宗の重臣茂庭綱元に下げ渡されてその側室となり、2人の子と共に綱元の仙台茂庭邸に移った。
 香の前が綱元の側室となった際に、政宗との間に生まれた子供達は綱元の実子扱いとされ、以後は綱元の下で養育されることになった。
1619
 津多は柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ嫡男の宗輔を産んだ(この宗輔が伊達騒動で有名な原田甲斐である)
・1671年
 亘理伊達屋敷に預けられるが
1671年
 死去 享年 

    香の前 
実父 伊達政宗   養父 亘理重宗
     
     
原田宗資

津多(慶月院)

亘理宗根
亘理重宗の娘(栄頌院
 
     
 
原田宗輔(原田甲斐)
  亘理宗広
      各務利静

原田甲斐の母 原田津多「慶月院」墓
・説明:1598−1671年 伊達政宗の妾 香の前の子 系譜上は茂庭綱元の娘
  甲斐が、伊達安芸を斬ってしまった事件で、母は亘理の伊達基実のところへ預けられることになった。母の立場とすればたいへんなことで、我が家柄は伊達氏累代にわたる名門でありながらこのようなことになっては、一家みんな滅びてしまう不始末を犯したと嘆いて、舌を噛んで死のうとしたところ、老衰の身であったためそれは果たすことができなかった。そこで、こんどは絶食を図ったのである。絶食は数十日に及び、1671年に餓えて死に、吾が子の罪を償ったという。
・場所:宮城県亘理郡亘理町字竜円寺前 Yahoo地図