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伊達 政宗の家臣/伊達の三傑
鬼庭(おににわ)・茂庭(もにわ) 綱元(つなもと)
・1549−1640年 鬼庭良直(左月斎)の長男。1575年に家督を継ぎ、長井郡川井城主(米沢市)となる。
 行政手腕に優れ、38歳で奉行に抜擢された。朝鮮出兵の際は物資補給を担当して、伊達軍に餓死者を出さなかった。伊達家の内政を支え、片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称せられる。
 片倉喜多は鬼庭綱元の異母姉
  父:伊達氏家臣鬼庭良直(左月斎)の娘として生まれる。
  母:本沢真直の娘 直子

 片倉景綱は片倉喜多の弟

1549年
 鬼庭良直(左月斎)は、側室が生んだ男児(鬼庭綱元)を滴男とするため正室の直子離縁する。
 
父:鬼庭良直(左月斎)
 母:牧野刑部の娘
 
 正室:新田景綱の娘
 側室:香の前
1575年   家督を継ぐ 長井郡川井城主(米沢市)
1586年
 人取橋の戦いでは殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦するが、父・左月斎(鬼庭良直)
は討死にした。
 奉行職に任ぜられ、1588年には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増
1590年
 知行再編により柴田郡沼辺城主となる
 葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見すると、豊臣秀吉への弁明のために京に派遣され、以後秀吉との折衝役を務める。
1591年
 政宗が岩出山に減転封されると、磐井郡赤荻城主となる。
1592年
 文禄の役の際には肥前国名護屋に在って留守居役を務める。
 この時、秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという
1595年
 秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになる。
 政宗の命により良綱(鬼庭綱元の二男)に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれる。
 綱元は伊達家から出奔した。
※逸話:綱元が隠居に追い込まれた原因として、賭け碁に勝った綱元が秀吉から香の前を賜ると、政宗が綱元に香の前を差し出すように命じたが、綱元がこれを拒んだために政宗の怒りを買ったとする説が有る。この説によれば、帰参の条件には香の前を差し出すことが有ったともいう。
1597年
 赦免されて伊達家に復帰
1600年
 山形城主最上義光への援軍第一陣として戦う。引き続き福島城攻めに参加
 隠居料として改めて栗原郡文字に1,100石を与えられる。
1601年
 政宗が上洛する際には、仙台城の留守居役を任される。
 さらには父・鬼庭良直(左月斎)が輝宗の代に務めていた評定役に就任し、六人制の奉行職の上に立ってこれを指導・監督した。
1602年
 政宗がかつて秀吉から賜った愛妾・香の前を下げ渡され、政宗と香の前との間に生まれた一女一男
 津多又四郎(亘理宗根)(戸籍にない伊達政宗の子)は、綱元の養子になる。。
1604年
 政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場(茂庭町)が置かれた。
1614年
 大坂冬の陣では政宗の長男・秀宗の陣に属する。
1615年
 伊達秀宗に伊予国宇和島藩10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島に赴いて宇和島藩の統治機構の立ち上げにたずさわり、同年4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。
1618年
 宗綱が早世(享年16)すると、その菩提を弔うため入道して了庵高吽と号し、高野山成就院に赴き三年間にわたって供養を行う
1621年
 政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領すると、以後はここに居住した。
1636年
 政宗が死去すると政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲って隠居領の栗原文字に隠棲する。
1640年
 死去 享年92