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原田 甲斐 宗輔(はらだ かい むねすけ)
・1619年 原田宗資(はらだむねすけ)の長男として陸奥国柴田郡船岡城で生まれる。
       通称:原田甲斐 幼名は弁之助 初めは雅楽
       母の名は種 豊臣秀吉・伊達政宗の愛妾、のち伊達氏の家臣茂庭綱元の側室になった
       伊達政宗の愛妾 香の前の娘・津多(慶月院)
・1623年:5歳:父・宗資の死去により家督を継ぎ、原田家第19代船岡城主となる。
・1648年:伊達藩 評定役
・1663年:伊達藩 奉行(家老)首席 禄高:4380石
・1671年:伊達騒動 享年53歳:江戸に於いて大老・酒井忠清邸で伊達宗重を斬殺し、
       宗重派の柴田朝意と斬りあって傷を負い死亡
 原田家一家は断絶:子供4人・孫2人・養子に出された者や乳幼児を含め全員切腹、斬首
 登米市にある東陽寺の境内には原田甲斐の首塚が立てられている。 
 柴田城趾 向かって右側 原田甲斐宗輔公供養塔 柴田郡柴田町船岡字館山 

原田甲斐屋敷跡
・場所:宮城県仙台市青葉区片平1丁目6-1 Yahoo地図
 現在、仙台高等裁判所が建っている所が、原田甲斐の邸宅があった場所
仙台高等裁判所









荘厳寺 原田甲斐逆さ門
・場所:宮城県仙台市青葉区新坂町12-1 Yahoo地図
・説明:逆臣となった屋敷の門であることから、この門は柱を天地逆にしたことから逆さ門の名がある
 部材を逆さに組んであり、これが「逆さ門」と云われる所以となっています
 仙台藩家老の原田甲斐宗輔の屋敷門を平成5~6年に解体修理を行い、「悪を善に転じる為」
    柱村の上下を逆さに、左右の位置を交換して建て直し、「逆さ門」とも呼ばれている。









塩竃神社
・場所:宮城県仙台市宮城野区榴岡2丁目2 Yahoo地図
・1663年 仙台藩4代藩主になった伊達綱宗は塩竃神社を修造する際に原田甲斐を修造奉行に任命し、奉幣及び勅額を東六番丁にあった高福院境内に仮宮を設けて塩竃神社完成する1680年まで安置した。






 

 原田甲斐の墓 
原田甲斐の墓大光寺
・場所:宮城県柴田町船岡南一丁目1-7  Yahoo!地図
・説明:原田甲斐の死体は東京の増上寺良源院に葬られた(東京都港区)
 宗輔の首は現在の宮城県柴田町船岡にあった東陽寺(現在大光寺)の裏手に密かに埋められ、後に寺の移築に伴って掘り起こされて、改めて同寺の境内に埋葬されたと伝えられている
 その後、東陽寺が米谷に移った際、甲斐の首は梵鐘に隠されて運ばれ、本堂の裏に密葬し、
 目印に銀杏を植えたといわれています。後に銀杏の大木の前に原田甲斐の首塚建てられた
大光寺)



 原田甲斐宗輔の供養塔
船岡城址公園
・場所:宮城県柴田郡柴田町大字船岡字舘山 船岡城址公園内二ノ丸跡  Yahoo!地図
・説明:寛文事件で斬死した船岡城主甲斐宗輔の300回忌を期して、昭和45年建立。



左:柴田外記朝意供養塔 右:原田甲斐宗輔供養塔



 

原田甲斐の首塚/登米市の東陽寺
・場所:宮城県登米市東和町米谷字越路83 Yahoo地図 
 その後、東陽寺が米谷に移った際、甲斐の首は梵鐘に隠されて運ばれ、本堂の裏に密葬し、
 目印に銀杏を植えたといわれています。後に銀杏の大木の前に原田甲斐の首塚建てられた。



原田甲斐寄進の鐘楼


原田甲斐の墓








原田甲斐の母 原田津多「慶月院」墓
・場所:宮城県亘理郡亘理町字竜円寺前 Yahoo地図 
・説明:1598-1671年 伊達政宗の妾 香の前の子 系譜上は茂庭綱元の娘
  甲斐が、伊達安芸を斬ってしまった事件で、母は亘理の伊達基実のところへ預けられることになった。母の立場とすればたいへんなことで、我が家柄は伊達氏累代にわたる名門でありながらこのようなことになっては、一家みんな滅びてしまう不始末を犯したと嘆いて、舌を噛んで死のうとしたところ、老衰の身であったためそれは果たすことができなかった。そこで、こんどは絶食を図ったのである。絶食は数十日に及び、1671年に餓えて死に、吾が子の罪を償ったという。